新国立劇場 オペラ:コルンゴルトの『死の都』 バレエ:ストラヴィンスキーの『シンフォニー・イン・スリー・ムーヴメンツ』etc. ― 2014/03/20 00:22
一昨日は猛烈な南風が吹いて、それが春一番だったそうです。気温も20℃ぐらいまで上がって、もちろん上着はいらない陽気。
ヴェロニカのコロニーの中に球根が埋まっていたみたいです。球根て一度埋めちゃうとどこに何を植えたかほとんど忘れちゃいますよね。
黄色のクロッカスもわずかに残っています。
白も見頃になってきました。
屋上で一番最初に花が咲き始める北の花壇は、そろそろクロッカスはおしまいです。
アイリスの細長い葉っぱが伸びちゃって、クロッカスが隠れています。
うんとローアングルで撮ると、またちょっと違った猥雑感があります。
芝生の緑が次第に回復してきました。
この調子だと3月中に一度芝刈りをするかもしれません。
北東側の花壇
タイツリソウ。3月中には花が咲き始めるかも。
北西側花壇。ミニバラの赤い新芽がきれいです。
一昨日(3月18日)はコルンゴルトの『死の都』を見に初台に行って来ました。多分世紀末を想定したと思われる腐臭漂うブリュージュ(ブリュッヘ)の町が舞台。中世に町を襲った大津波の跡に運河を掘り、中世末期には交易都市として栄えたの町ですが、次第に運河に土砂が堆積するとともに船舶の運航が減り、まあ19世紀には『死の都』と呼ばれるようになっていた。
それからあらすじがここらへんにあります。美貌の妻マリーを亡くしたパウルが、亡き妻にそっくりな踊り子マリエッタと出会い、その魅力に惹かれる。マリエッタもパウルを誘惑。でもやっぱり亡き妻のことも忘れられないパウルは、マリーの遺髪でマリエッタを絞め殺す。そしてこれが全部夢だったのさ。こんな腐臭漂う『死の都』にはおさらばだ。
夢落ちという結末ですが、舞台では死んだはずのマリーがだんまり役として最初から登場し、パウルにだけ見える存在として振る舞います。これが今回の演出の決まり事らしい。
まず原作は「世紀末象徴主義文学の希有な成功作」(プログラムより)だというジョルジュ・ローデンバックという人物が書いた『死都ブリュージュ』。これを作曲者とその父親がオペラの台本にしたんだそうだ。もちろん原作を読んだことはないんですが、たぶん、亡き妻への忠誠と、妻にそっくりな踊り子の魅力との間で揺れ動くパウルの心情を描いた、幻想小説ないしは心理小説なんだろうと思われます。
で肝心な音楽ですが、やっぱり忘れ去られていたのにはワケがあるんでして、これは音楽史の彼方にそっと置いておくのがいい作品です。コルンゴルトのヴァイオリンコンチェルトを聴いたときにも思ったものですが、あまりにも大袈裟すぎる後期ロマン派の断末魔の叫びが、このオペラでもストーリーを殺してしまっています。たぶん輝かしい声の持ち主と思われる主人公は、登場と同時に目一杯声を張り上げます。でも所詮大波のような巨大オーケストラの彼方で叫ぶ、溺れかけた遭難者といった風情。これじゃ心理劇にならないんですよねぇ。
出演者の中で印象に残ったのは、パウルの友人フランクを歌ったアントン・ケレミチェフ。この人は第2幕でマリエッタ一座の道化も歌ってすばらしい歌を聴かせてくれました。それからマリエッタ/マリーのミーガン・ミラーもややビブラートが強めの声ながら、美貌も相まってなかなか存在感を示していました。
というわけで何とか半睡半覚醒状態で第2幕まで我慢しましたが、ここで退散。最後はどうなったんでしょうねぇ。9時半には家に帰り着いてメデタシ・メデタシ。最後まで見ていたら疲労感・徒労感が半端なかっただろうなぁ。
20世紀のオペラとして現在でも上演される、例えばリヒャルト・シュトラウスのオペラ、ショスタコの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とか、あるいはツィンマーマンの『軍人たち』といった作品は、まずもって台本がよくできている。登場人物の個性が立って、キャラクターが描きわけられている。何よりも強力な音楽的求心力を持っている。それに対して『死の都』は台本が甘い。音楽の求心力がない。総ルビ、総ゴシックのアジビラのような音楽が延々と続くと、やっぱり人間の集中力にも限界がありますから、まあ「堪忍袋の緒が切れる」ということになりますニャー。
帰り道、月がとてもきれいだったので、写真を一枚。十六夜、立待月です。
家に帰ったら、トムピリさんがお出迎え。
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昨日(3月19日)はまたもや二国に。一昨日の敵討ちってわけじゃないけど、今度はバレエ。いわゆるコンテ(ンポラリー)で、ジェシカ・ラング振付の『暗やみから解き放たれて』(原題:Escaping the Weight of Darkness)、ハンス・ファン・マーネン振付の『大フーガ』(Grosse Fuge)、バランシン振付・ストラヴィンスキー作曲の『3楽章の交響曲』の3本立て。
二国のページはこちら。キャストや写真などもこのページからご覧になれます。
まず順を追ってラングの新作『暗やみから解き放たれて』から。プログラムには「ポスト・クラシカル」なる新語(?)が華々しく登場。全体は大まかに5つの部分に分かれているようなんですが、4人の作曲者がクレジットされています。この4人には音楽上明確な区分は見当たりません。調性があるややゆったりとしたミニマルっぽいメロディーとリズムが、弛緩した時間の流れの中でたゆたうように鳴っています。ストーリー性とか、緊張感とか、メッセージ性などといった人の心に働きかけるような物は一切排除され、あたかも自然のママにいつでもそこにあるかのように響きます。要するに音楽と思って聞こうとすると、向こうが逃げ出してしまうような、主張が全くない響きの羅列です。
こういった響きは人の睡眠中枢にスイッチを入れる働きを持っています。30分ほどの作品でしたが、25分ぐらいは眠ったでしょうか。確かに踊っているのを見ました。でも何をやっていたのか正確には覚えていない。なんか白い浮き輪のようなものが天井からたくさんぶら下がっていて、それに電球が入っているのか明るく光っていました。真っ暗な背景の中でその白い物体が上下して、重力と闇からの解放を象徴していたのかなぁと思います。そして時々、レオタード姿の踊り子がその浮き輪のようなものをまるでチュチュのように腰にまとって踊っていました。そして、ここで盛大な拍手があって、25分の休憩。
2つ目はもちろん有名なベートーヴェンの弦楽四重奏曲ですが、これを弦楽オーケストラの編成で演奏するという趣向。舞台上には4組のダンサーが登場します。女は薄地のレオタード。男は袴というのか、ロングスカートというのか、こんな感じの物を腰に巻いています。さらに幅の広いベルトを締めています。
初め男と女はそれぞれ群れをなし、互いに交わりません。男の中でも群れているというよりは、一人一人が勝手にソロを踊っている感じ。女も同様です。それがいつしか群れとして対峙し、さらに男と女というペアになっていきます。4声部のフーガを4組のペアで描こうとする趣向はよくわかります。フーガの最後のあたりで男はスカートを脱ぎ、パンツ一枚になって女にまたがり、緊張感がいや増しに増します。これで終わるのかと思いきや、弦楽四重奏13番の第5楽章がつなげられて、何とも清らかな響きが男女を包み込みます。これが何なのか。女が男のベルトにぶら下がったまま引きずり回されたり、逆に女が男の上に仁王立ちになったりと、わけのわからない動きを繰り返した挙げ句、全員が横たわっておしまい。まあ一言で言うならば、「男の胸毛が汗で光っていた」そんな印象の作品。ここでまたもや、25分の休憩。演技時間と休憩時間がほぼ同じ。
3曲目も有名なストラヴィンスキー作曲の『3楽章の交響曲』。これはバランシンの定評ある振付です。登場する踊り手の数も多く、群舞の醍醐味を満喫できる作品です。バランシンの踊りって、抽象的な作品では群舞の幾何学的な動きの面白さが特徴。これはこの日の作品でも遺憾なく発揮されて、二国バレエの群舞の美しさを堪能しました。
ところでコンテ(ンポラリー)って、なぜ装置がないの? 何で書き割り一つ使わないの? 何で無味乾燥な照明しか当てないの? 何で色気のかけらもないレオタードやら、Tシャツで踊るの? これだけ何にもないんなら、料金うんと安くしてもいいんじゃないかなぁ。ただでさえ、見る楽しみが少ない出し物なんだから、もうちょっと工夫できないものかね。
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