新国立劇場 『コジ・ファン・トゥッテ』 ― 2011/06/03 13:55
昨日(6月2日)は二国でモーツァルトの『コジ・ファン・トゥッテ』の新演出を見てきました。コジは二国で2005年と06年に上演されていて、05年はエッティンガーの指揮でヴェロニク・ジャンスやベルント・ヴァイクルが歌い(%がついたURLってやつはどうも始末が悪い。http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/opera/2004%7E2005/cosi/cosi.html 興味がある方はこれをコピーして行ってみてください)、06年はツィトコーワ、中嶋彰子などが登場して大いに喝采を浴びていました。
客席が暗くなって有名な序曲が鳴り出します。重々しい短い序奏のあと軽快な主題が・・・何となく凡庸に聞こえてきます。ゴメス=マルティネスという指揮者、二国では『アンドレア・シェニエ』、『ドン・カルロ』なんかを振った人だそうですが、あまり印象にない。というか、音楽の作りに関しては全然記憶にない。1幕は何となくオケ全体がノリが悪いのかななんて思っていましたが、2幕になるとオケの音もなかなか引き締まってきました。特にこの曲の特徴である、管楽器のアンサンブルが尻上がりに調子を上げてきて、本当に「美しい」と思えるような瞬間さえありました。ただこれが指揮者の音作りによるものではなくて、東フィルの健闘によるものだっていうのがちょっと寂しい。もうちょっとモーツァルトに共感する人が振ったら、もっともっと楽しい舞台になったのにと思うと、かなり残念です。
歌手ではドラベッラのダニエラ・ピーニ、グリエルモのアドリアン・エレートがなかなか頑張っていましたが、フェルランドのグレゴリー・ウォーレンは喉が詰まったような声で、高音がいかにも苦しそう。フィオルディリージのマリア・ルイジア・ボルシという人は新演出の衣装で割を食ってしまって、ちょっとかわいそうでした。
今回の新演出は大胆な読み替えというわけではなく、ロケーションを夏のキャンプ場に設定して、いかにも若い恋人たちの間で起きそうな恋のドタバタで笑いを取ろうという趣向。目に見えるものと、耳から聞こえるものとのギャップも笑いのヨウ素。じゃなかった要素。たとえてみれば、こんな雰囲気。ドン・アルフォンソは本来の脚本では老哲学者として、いわば芝居のプロセニアムを形成する役割を担う人物ですが、今回はキャンプ場の経営者に転身。若い恋人たちと一緒になってドタバタに参加しちゃいます。これはデスピーナも同様。姉妹の女中だったはずが、キャンプ場の従業員という役になって、無理やり若い4人に絡もうとしますが、かなり強引な役作りで演技が平板。ドタバタのなかに埋もれてしまいました。スラップスティックな笑いを優先した演出で、そう割り切ってしまえばそれなりに楽しめるんですが、「女はみんなこうしたもの」というオリジナルの台詞が全然意味をなさなくなってしまい、大詰めでは2人の女性が逃げ出してしまって幕。いろんなエンディングを見ましたけど、これはちょっとねぇ。なんか落とし前をつけてもらいたいもんだ。それとも「哲学なき時代」という結論こそが演出のミキエレットが言いたかったこと?
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