能『敦盛』@国立能楽堂2025/06/14 22:43

今日は千駄ヶ谷で能を見てきました。メインは世阿弥の『敦盛』。敦盛最期の場面は高校の教科書でも取り上げられるほど有名な場面ですが、古典芸能の世界では歌舞伎・文楽の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』から「熊谷陣屋の段」、そして能の『敦盛』が特に有名。歌舞伎・文楽の「熊谷陣屋」は熊谷直実自身が、ちょっと含みを持たせつつ敦盛の首級をあげた場面を語ります。実は一谷嫩(ふたば)軍記という題名が意味するところは、敦盛が16ないし17歳という若者であったことに由来します。数え年ですから、今でいうと高校1年生というところでしょうか。しかも歌舞伎・文楽でほ直実の実の子供も同じ年格好で、今回の合戦が初陣ということになっています。須磨の浦での「呼び戻し」の場面では、敦盛は馬を泳がせれば味方の船までたどり着けたかもしれない。でも直実の呼びかけに応えて、敦盛は馬を返して直実と取っ組み合いになる。そして直実が首級をあげる瞬間になって、平家の公達のあまりにも若く美しい顔を見て一瞬ためらう。自分の息子と同じくらいの年齢。このまま首を打ち取るわけにはいかない。というわけで、敦盛を逃がして、身代わりに自分の息子の首を切り、首桶に入れて義経に首実検をさせるという筋書き。その後直実は世の無常を感じて、比叡山から降りて黒谷に金戒光明寺を開いたばかりの法然に弟子入り。今でも金戒光明寺には本堂の裏手に「鎧池」という名の池があり、熊谷直実がそこで鎧を洗って、本堂前の「鎧かけ松」に掛けたという伝説が残っています。

さて能の『敦盛』は敦盛の霊を鎮魂するお話。能ってのはえてして、成仏できないで彷徨っている霊を、旅の僧が宥めすかして成仏させるっていう筋書き。ちなみに『葵上』では、葵上に取り付いた六条御息所の生霊までも成仏させちまいます。『敦盛』ではワキが旅の僧じゃなくて熊谷直実と本名を名乗ります。シテはもちろん敦盛の霊。前場では4人の若い草刈り男の一人として登場。鄙の者どもにしては笛を吹いたりしてやけに貴族趣味が芬々としております。ふつう成仏していない霊は老人の形で視覚化するんですが、さすがに16〜7で命を落とした公達を老人の姿で描くわけにもいかないので、若い草刈り男となっています。4人のうちの一人が前場の最後まで残り、敦盛ゆかりの者だと蓮生(熊谷直実の法名)に告げ姿を消します。ちょっとくどいんですが、ここでアイの浦人が敦盛の最後の場面を蓮生に語って聞かせます。そして後場に入り、蓮生が念仏を唱えていると、武者姿をした平敦盛の亡霊が現れます。かつての敵(かたき)が念仏で供養してくれることに感謝し、両者意気投合。めでたし、メデタシ。敦盛はあくまでも貴族的な立ち居振る舞い。歌舞伎や文楽が直実の口から戦闘シーンを語らせるのに対して、思い出として一ノ谷の前日に宴を催し、笛を吹いたことなどを敦盛の口から語って聞かせます。たぶん平家物語も直実の視点から戦いを語っているんだと記憶していますが、能だけは敦盛視点であるところが興味深い。ところが一瞬、敦盛最期の瞬間に思いを馳せると、だんびらを鞘から抜いて、蓮生に斬りかかろうとしますが、一段と高く念仏を唱える蓮生の弔いを思い返し、供養を頼んで敦盛の霊は姿を消します。ワキの蓮生法師の声よく通ってきれいでした。シテ(主役)の藤波重彦の衣装と舞は見事。


『敦盛』の前に狂言『真奪(しんばい)』が演じられました。室町時代、生花がたいそう流行ったんだそうで、心(生花の中心に植える木らしい?)を探しに東山に向かう主と太郎冠者。途中でいい心を持った通りがかりの者を見つけ、あれを奪ってこいと主人が命じます。首尾よく太郎冠者は心を手に入れますが、代わりに主人の家に代々伝わる太刀を奪われてしまいます。二人はくだんの人物を待ち伏せして、太刀を奪い返そうとし、主が相手を羽交い締めにしますが、文字通り泥棒を捕まえて縄をなうを地で行ったおかしさが舞台上で繰り広げられました。