11/26 ボリス・ゴドゥノフ@新国立劇場 ― 2022/11/27 16:42
生半可な鑑賞態度では簡単には読み解けない複雑怪奇な芝居でした。プーシキンの原作史劇云々、ムソルグスキーの音楽云々、それから今回のトレリンスキによる演出と音楽的なコラージュの問題(おそらく責任者は大野和士だろう)が絡んで、わけのわからないカットが多く、一体どの場面が目の前で進行しているんだか、それを想像するのもかなり難しい。
舞台上には蛍光灯で縁取られた立方体のようなものがいくつか。上手の一番手前の立方体はボリスのセガレであるフョードルの病室に固定されている。だんまりの役者が演じているんだそうだが、手足が突っ張って、かなり強烈な脳性麻痺のような仕草をしている。史実としてはイワン4世(雷帝)の世継ぎに軽い脳障害があって知恵遅れだったということだが、ここではボリスの世継ぎがかなり重度な障害を持っているように表現されている。その他の立方体は場面に応じて、様々な部屋として用いられているんだそうだ。何となく場所の区切りなのかなと見て思っても、後からプログラムを読むまでわからなかった。ステージ上では演じている歌手のクローズアップをいろいろな角度からリアルタイムで映し出したり、あるいはプロジェクションマッピングが映ったりしている。それぞれの意味を瞬時に読み解くことは不可能で、見る側にはストレスが溜まっていく。
極めて抽象度が高い舞台であるほかに、貴族も民衆も現代風の衣装を着て、いかにもサラリーマンといった雰囲気。ボリスに至ってはガウンの下は半ズボンにTシャツだったりする。つまり階級差がまるで見えてこない舞台だ。ということは権力者なるがゆえの苦悩とか、不安などはすべて一般化され、曖昧にされる。皇子殺しの過去が暴かれるのではないかという不安は、どこか他人事のように演じられる。
歴史劇の場合、衣装って重要ですね。ボリショイ・オペラの皇帝の衣装なんて高望みはしないけど、まるで階級差を感じさせない衣装って、ホントに人物の区別すらできない。クレムリン前赤の広場に集まってくる「パンよこせデモ」の民衆もネクタイしていたりするんで、一層不可解。それでいて、最後のボリス殺害の場では、心理劇を視覚化しようというのか、狼の被り物なんかを付けた民衆が登場する。バカみたい。
歌手はピーメンを歌ったジェネリーゼが群を抜いていました。というのもまだ若手ですが、数年前までボリショイ劇場のバスだった人。ジョージア人だそうですが、このバスはすごいぞって思いました。ボリスは随分前、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王、『マイスタージンガー』のポーグナーなんかを歌った人だそうですが、主役を張るにはかなり軽い。89年のボリショイ引っ越し公演ではネステレンコが歌って、NHKホールの座席がビリビリっと共鳴したのを覚えています。やっぱりロシアのバスってのは独特な深い音色を持っていて、あれがないと特に『ボリス』のような演目は難しい。
音楽的なコラージュに関して大野がどんな見解をもっているのかプログラムでは表明されていませんが、作品解説のビデオかなんかで説明しているのかな? 都響は最初のファゴットからロシアの音を出していました。多分ロシア民謡なんかが使われているんだと思いますが、美しい響きでした。いつも素晴らしいアンサンブルを聞かせてくれる合唱団ですが、今回はがっかり。声の質の問題なのか、まるで民衆の魂の叫びに聞こえなかった。
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