ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルでハイドンとベートーヴェン2022/12/10 16:41

12月8日と9日はパーヴォ・ヤルヴィ指揮のドイル・カンマーフィルの演奏会を聞いてきました。オペラシティでは久しぶりのブレーメンの音楽隊の登場です

下からロバさん、ワンコ、ニャンコ、ニワトリさん。


8日はハイドンを3曲。予想通りというか、やっぱりなぁと言ったらよいのか、このコンビでもお客さんは7割ぐらい。かなり空席が目立っていました。でも「我慢して」ハイドンを3つ聞いた甲斐があったと思います。交響曲という音楽的なジャンルを確立し100曲あまりの交響曲を書いて、文字通り手練手管の限りを尽くして音楽の弁証法を築き上げたハイドン。ユーモアの要素、諧謔の要素等々、娯楽音楽としての交響曲を極めた達人であります。だけど、ハイドンが書くと短調でさえ底抜けに明るい。モーツァルトだとドン・ジョヴァンニの地獄堕ち、あるいはレクイエムの静謐な悲しみ、交響曲40番の「疾走する悲しみ」など、底抜けに明るい音楽と、地獄を覗き込む恐怖感とが隣り合わせにいる面白さがあります。この要素はハイドンには欠落しています。あるいは音楽史的にはモーツァルトのほうが異端なのかもしれません。ショパン同様、モーツァルトも亜流はたくさんいましたが、本当の意味での後継者はいないんですねぇ。ベートーヴェンでさえモーツァルトの後継者じゃない。逆にハイドンの後継者がベートーヴェンであることは確か。だけど、後継者という言葉を超えて、ベートーヴェンは音楽史上の革命家だったんですねぇ。なんてことを考えながらハイドンの3曲を聞きました。

ハイドンの交響曲第104番『ロンドン』。プロムスでのハイティンク指揮ウィーンフィルの演奏。
第3楽章の終わりのあたりからですが、まず特徴的なのがGP(ゲネラル・パウゼ)。曲想を変える時には、音楽の流れを一回切ってしまうというのがハイドンのやり方ですね。そして第4楽章のハンガリー風のドローン。さすがのウィーンフィルでさえ、ティンパニをスネアドラムのスティックのような棒で叩いています。ここらへん古楽演奏の影響が見て取れます。

翌9日はベートーヴェンの『コリオラン序曲』、交響曲第8番、そして3番の『エロイカ』。誰かさんがどこかの掲示板で、「ベートーヴェンはロックだ」と叫んでおりましたが、冒頭のコリオランのティンパニの一閃からしてベートーヴェンの革命家たる所以を聞き取ることができます。交響曲の8番は9番の前の、ちょっと枯れかけた時期の作曲ですが、何故か晩年のベートヴェンは複雑な音楽から非常に透明な音楽へと変化していきます。

例えば第2楽章の木管の響き。カンマーフィルがボンのベートーヴェンハレでやった演奏会の様子。

そして何ということでしょう。第3楽章はスケルツォじゃなくてテンポ・ディ・メヌエットとなっています。

エロイカはベートーヴェンの革命家たる本領を発揮した最初の交響曲ですね。第2楽章の葬送行進曲がまずもってシンフォニーのフェスティブな気分とは間逆な音楽。じゃじゃじゃ〜んという、ちょっと足を引きずるような前打音が悲壮感をいや増しに増します。

第3楽章はスケルツォ。トリオの直前から。ひとしきり盛り上がったあと、バウンドするかのようにちょっとテンポを動かしてから猛烈なホルンの妙技を聞かせてくれます。

第4楽章アレグロ・モルト。冒頭でちょっとテンポをいじっているんですが、その後の弦のピツィカートから対位法を駆使したアンサンブル、オーボエのソロ、フルートのソロ、どれもお見事。

カンマーフィルの生き生きとした音楽をすっかり堪能しました。N響でもこういう音楽をやりたかったんでしょうね。きっと。残念ながらやっぱりN響はN響。楽団員一人ひとりの表現意欲と自発性という点で、あまりにも差がありすぎ。仕方ないんでしょうねぇ。

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