大人の修学旅行 奈良編 ― 2022/04/03 18:03
3月29日。京都経由で奈良に到着。
夕方の5時過ぎ。空も曇っていてあまりいい絵は取れなかったんですが、街なかに繰り出してみました。猿沢池と興福寺の五重塔。奈良はこの五重塔より高い建物が建てられないらしい。
興福寺の南円堂と、ちょこっと桜。
「鹿男あをによし」で佐々木蔵之介、綾瀬はるかと一緒に、玉木宏が下宿していた家。
飛鳥 ― 2022/04/03 20:00
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去(い)なば
君があたりは見えずかもあらむ
元明天皇
明日香の里から奈良の都に行っちまうと、あんたの住んでるところは見えなくなちっちゃうぜ。
「飛ぶ鳥の」は明日香を導く枕詞なんて説明されますが、今では飛鳥のほうが「アスカ」と読むのに抵抗がないですね。
飛鳥駅
駅前ロータリー。何にもありません。
道端の草原
高松塚古墳
絵に書いたような円墳です。
すみれ
ミツバツツジ
里の桜
遠景、桜の枝の下あたりが畝傍山(うねびやま)、そのちょっと左が耳成山(みみなしやま)。
これが天香久山(あまのかぐやま)。この3つが大和三山。いずれも標高200メートルにも満たない山です。
大和は 国のまほろば
たたなづく 青がき
山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し
倭建(ヤマトタケル)が読んだと言われるあまりにも有名な歌。『古事記』の中巻「景行記」には、倭建の心の叫びが記されていますが、この歌もまた倭建の心からのふるさと賛美じゃないかと思います。
聖徳太子が生まれたと言われる橘寺。
飛鳥寺の飛鳥大仏。作られて1400年あまり、この位置から全く動かされていないそうです。つまり聖徳太子もこの位置からこの大仏を見たんだそうだ。顔つきはアルカイックというのか、ギリシャ風と言ってもいいのかもしれない。
作者は鞍作鳥(くらづくりのとり)。飛鳥寺は都が平城宮に移ってからは、元興寺と言う名前に変わってかなり大規模な寺院になったんだそうですが、今では飛鳥寺も元興寺もホントに小さなお寺です。
飛鳥寺の本堂前
やってきました石舞台。一説には蘇我馬子の墳墓とも言われていますが、よくわからねぇだ。古墳の土盛りが流れてしまって、石室だけが残っています。最近というか昭和天皇が何度か来たんで、見栄え良くするために桜を植えたりしたんだそうだ。
東大寺 ― 2022/04/03 21:15
次の日はほぼ一日中雨でした。
奈良の町は、ふと角を曲がると興福寺の五重塔が目に入ったりします。京都の東寺の五重塔と同じようにランドマーク・タワーですね。
くつろぎの時間。
東大寺南大門。鎌倉時代に再建された仁王像。運慶とか快慶とかそんなような仏師が作ったらしい。とにかく巨大。8メートル以上あるみたいで、ちょっと離れて見ないと、全体像がつかめません。吽形
阿形
「あ」と「うん」すなわち、AからZ、Α(アルファ)からΩ(オメガ)、どれも最初から終わりまで、つまり「すべて」という意味です。
南大門の石段上
中門
大仏をわざわざ金出して見る気にもならなかったので、中門の隙間から大仏殿を覗き見。
巨大な鐘楼。梵鐘は大仏開眼の年に鋳造されたもので、「奈良太郎」と呼ばれている国宝。重さ26トン。建物は鎌倉時代のもので、これも国宝。京都の知恩院、方広寺の鐘とともに、「三大名鐘」という事になっているんだそうだ。
雨の中、悠然と佇む鹿殿。
かあちゃん、鹿せんべい買うてぇな。
東大寺 つづき ― 2022/04/04 13:59
雨の中のんびり歩いて二月堂にやってきました。
毎年3月(旧暦2月)に修二会という法要をやるところ。崖造りというのかな、山の斜面に建てられています。
二階のバルコニーから奈良の町が見渡せます。
この舞台は修二会の最後の「お水取り」の際に、松明を振り回して駆け抜ける所。下に見える登廊は、「お水取り」の松明が登ってきます。
舞台の梁には吊燈籠がたくさん下がっています。
「お水取り」の長い柄のついた松明が登ってくる登廊(のぼりろう)。よく見ると松明の火のためか、天井が焦げています。
東大寺の経蔵。奈良のお寺ではこういった正倉院のような経蔵やら宝蔵がよく見られます。
春日大社、新薬師寺 ― 2022/04/04 20:38
東大寺をあとに春日大社から新薬師寺に向かいました。
開けたところに出てきました。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
安倍仲麻呂
遣唐使で中国に渡り玄宗皇帝に重用され、やっと帰国が叶ったときの宴席で読んだ歌と言われています。でも帰りの船は難破してベトナムまで流されちゃうんですよね。
若草山ってのは、実は三笠山と同じものだってのを初めて知りました。山が3段重ねに見えるんだそうです。
偉そうな鹿
春日大社の手前の小さな神社の前の茶屋。
あをによし 奈良の都は 咲く花の
にほふがごとく 今盛りなり
小野老(おののおゆ)
小野老は有名な小野妹子のひ孫。下級官吏で大宰府に派遣されていた頃に読んだ都を懐かしむ望郷歌。小野老は九州の筑紫短歌クラブっていう同好会に所属していたそうだ。ちなみに「あをによし」は奈良を引き出す枕詞。
現代語訳1
奈良の都は、咲く花が、香り高く今を盛りと咲いています
現代語訳2
奈良(寧楽)の都は今は、咲く花の匂うように真っ盛りである
(「にほふ」は「嗅ぐ匂い」ではなく、赤や黄や白が目に鮮やかに映えて見えるということをいいました。)
なんて現代語の解釈がなされてきました。ところが・・・
この藤棚を御覧ください↓ 春日大社の参道のすぐ近くの茶屋の前です。藤の根本が他の木を絞め殺さんばかりに巻き付いています。
小野老の歌が読まれた時期は、文武天皇と藤原不比等の娘宮子との間の子である、聖武天皇が724年に即位し、729年には不比等のセガレ4兄弟が政敵の長屋王を死に追いやった、いわゆる長屋王の変なるものが起こっています。これはまさに藤原氏が政権の中枢を担うことになるターニングポイントでありました。さらに大宰府の小野老は長屋王の変の後十五位下から十五位上に昇進しており、太宰府での上司である、反藤原派の大伴旅人に対する、監視役として大宰府に派遣されていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。
つまりこの歌は単なる望郷歌なんてもんじゃない、藤原氏の繁栄を賛美する歌だったのではないか。背後にドロドロの権力闘争を感じ取ることができますが、そのように考えると実に鮮やかな勝利宣言と言わざるを得ない。春日大社自体藤原氏の守護神だし、春日大社の萬葉植物園なんてまるで藤のためにあるようなものだ。京都の藤原道長の子供、摂政関白藤原頼通が建てた平等院にも立派な藤棚がある。しかも、最も重要なことは、桜はあまり香らないし、梅は「かそけき」香りだ。ところがフジの花はとても甘くて強くいい香りがする。
春日大社はにはさほど興味もなかったんで、参道を南北に突っ切る「禰宜道」なるものを見つけて新薬師寺に向かいました。
新薬師寺
霊験「新」たかな薬師寺ということだそうだ。かつては七堂伽藍を備えた大規模なお寺だったらしいが、今は本堂だけの小さなお寺です。ただその中にあるものが凄い! 薬師如来と十二神将。
本堂の中は撮影できないので、あたりの静かな町並みを御覧ください。
モクレンでしょうか。
このあたり風情のある土塀をよく目にしました。
鳥籠窓の家
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